父が亡くなって間もなく、手紙が届いた。
その人は、Fさんという父の友人で横浜の高齢者施設に入居しておられた。
父の死がよほど悲しかったらしく、
その後、私と何度かハガキのやり取りをしていた。
私も、父の思い出を振り返りながら、
文通を楽しんでいた。
文通を始めて半年経ったころ、
このFさんの父系の従妹Wさんという人が、
出雲の墓参りのついでに、
私のもとを訪れられた。
「たくさんハガキを出してもらって、
Fも生きがいみたいにして文通を楽しんでます」と、
わざわざ、東京土産を持って、Wさんは立ち寄ってくださった。
20分程度の話の中で、かつて私の上司で、今もお世話になっている人や、なぜか気が合うお客様とWさんが高校の同級生だとわかった。私にとっては一回り年上の高校の先輩にあたるが、不思議とこの期の先輩たちには、ご縁があった。私は「また一人増えた」と心の中で呟いていた。
その後、東京に帰られたWさんから手紙が届いた。そこには、私が送った手紙に書いていたNさんの奥さんが、Fさんの母系の従兄だと書いてあった。
Nさんは、父が、ボランティア団体で知り合った方で、私にもよくしてくれるので、ご存命の間は、中元歳暮の贈り物を欠かしたことはなかった。そのうち、Nさんの奥さんからも連絡があり、楽しくお話をさせてもらった。
4か月経って春になった。
Wさんが興奮気味にやってきたので、 「何ごとか」と身を構えた。
挨拶もそこそこに、
「あなた、Mさんも知ってるのね」と、第一声。
「私ね、今、Mさんと『笠家』で昼食していたの。そしたら、Mさんが貴方のことよく知ってるって言うじゃない。びっくりして、不思議な感じがして、・・・」
Mさんというのは、私の小学校からの友達のお母さんのことで、娘Tとは小学校と高校の卒業時、同じクラスだった。石見の町に嫁いだ娘Tとは、今でも、町の中で偶然出会ったりする。
この話を書き始めたころ、文通は現在進行形だったのだが、ここまで書いて、訃報が届いた。Wさんからだった。4月20日正午過ぎに、Fさんがお亡くなりになったようだ。一年余りの文通は、突然に終わった。朝、77通目のハガキを投函したのが最後となった。
私の人生に、美しい光を当てていただいたような気持である。他の人に体験できない時間だったと思う。父の死後一年余り。この間、慰められていたのは、私だったような気がする。
いつものように、心の中で、
「家族のように接することができていたかな」
と、父に問いかけた。
Fさんには感謝の気持ちしかない。
奇縁も味わわせて頂いたものである
令和8年4月
かつらのフセ





